6月7日(月)
久しぶりに月刊自治研を手にした。考えてみると月刊なのだから
月1度でいつも毎日を必死に生きている人間からすると、いつの号
も久しぶりとなる。
●大河原さんが菅原さんのインタビューを受けていた。
そして,八ッ場ダムのことを思い起こした。
・オリンピックの頃、東京が水飢饉に陥り、当時の
河野一郎国務大臣が
「東京あって都政なし」とこきおろした。
それから、利根川水系ダムの大掛かりな整備が始まる。
国の首都圏整備局の仕事として始まったと思う。
・この路線は、美濃部都政にも引き継がれる。路面電車の
撤去と同じで、にわかに政策変更は出来なかった。
・東京の1970年代の勢いが消え、水需要の構造も変わり始めたが
供給事業にはかわりがなかった。
・1983年ごろ、市民運動でダムツアーを実施し,八ッ場ダムを訪れた。
すでに、多くは閉鎖され、あるいは、あっても閑散としていたが、たしか
トヨダさんの経営する旅館に泊まったような気がする。
・また東京ブームが去った1988年当時、「わたしたちの街宣言」運動の
総括として、また八ッ場を訪れた。
「みなさん、この集落の方に、申し訳ないが湖底に沈んでください、と
お願いしたのは、美濃部さんも同じですよ」とボクは発言し、参加者の
多くが驚かれた。
・地域が荒廃しはじめ、様々な施設がなくなって行くが、郵便局だけは
残っていた。(いまは真っ先になくなるが・・・)
・八ッ場の水源、梓川?はあばれ川で、岩がごろごろし、ダムを作っても
ダムそのものがすぐ砂利で埋まってしまうのではないか。また水質は
酸性度が高く、中和するのに苦労するのではないか、などいろいろ疑問は
出されたが、作る側はそんなことに躊躇するそぶりも見せない。
・これらの矛盾を一貫して追及してきた市民運動が「東京の水を考える会」
であった。
●前原国土大臣は、ダム建設の中止を決めたが、止めても作っても、半世紀の
空白は埋まらない。
ほかの地域住民の生活のために、その小さな地域の住民が犠牲になる。
これは沖縄普天間問題と同じ構図だ。
それに気がついていた、市民運動団体は、解決のための特別法の研究
をしていた。それを生かすときであるが、さてどうなりますか